霊柩車の歴史
はじめに
これは私が入社して、はじめて霊柩車を運転した時の話です。
告別式を終えた後、ご遺体を納めたお柩はご遺族の手で霊柩車へと乗せられ、火葬場へと出発します。東予葬祭では、霊柩車に「トヨタクラウン」「日産フーガ」に、専用の改造を施して運用しています。これら2台には「スポーツモード」が設定されています。霊柩車には不要な機能ですが、ベースの車両にはじめから搭載されているため、そのままになっています。
私がはじめて霊柩車を運転したのは、会館から別の会館へ霊柩車を回送する際でした。新居浜市と西条市を横断する産業道路を通過する走行ルートで、交通量も少なかったので、せっかくだし「スポーツモード」を使ってみるかとダイヤルをひねった瞬間、ジェットコースターとまでは言わないにしても、体がシートに押し付けられるほどの猛加速であっという間に、法定速度ギリギリに達しました。慌ててアクセルを離し減速しましたが、今後は霊柩車に乗る時には、まずダイヤルを確認しようと肝に銘じました。
霊柩車の興り
さて、皆さんは「霊柩車」と言われてどんな車をイメージするでしょうか。セダン車の後ろにお宮が乗った「宮型霊柩車」、同じくセダン車をストレッチして荷台部分を革張りにした「洋型霊柩車」、地域によっては「バス型霊柩車」をイメージする方もいらっしゃるかもしれません。最近では「ミニバン型」も増えてきています。
現在でこそ多様な形を持つ霊柩車ですが、自動車が国内に普及する以前は「葬列」と呼ばれる方法で、「人力のリヤカー」や「馬車」を使ってご遺体を火葬場までお連れしていました。葬列と言われてもピンと来ないかもしれませんが、大名行列のイメージに近いでしょう。
大正時代に入り自動車の使用が一般化してくると、マスコミを中心に大規模な葬列に対する反対運動が行われるようになりました。葬列廃止の決め手となったのは、路面電車の運行開始でしょうか。不定期に主要道路や線路を数十人で移動すれば、渋滞になるのは当然のこと、事故のリスクも高まります。そうして大都市圏において、葬列に代わる形で登場したのが霊柩車です。「最初の霊柩車使用はいつだったのか?」については諸説あるところですが、アメリカから仕入れてきた車両を運用していたようです。
霊柩車文化の広がり
大正から戦前にかけて、大都市圏で広がりを見せていた葬列と霊柩車の入れ替わりですが、全国的に霊柩車が用いられるようになったのは、戦後少し経ってからのことでした。工業化に伴う交通量の全国的な増加に伴い、葬列から霊柩車への置き換えが加速していきました。現在に続く宮型霊柩車の興りは、元首相大隈重信の国民葬にあると言われ、高重量を支えられる頑強な輸入車に職人が手作業で装飾を施し、様々なデザインも見受けられましたが、現在では維持費や整備性の問題、走行ルート近辺の住民からの苦情により、姿を消しつつあります。
変わって登場したのが、現在主流となっている洋型霊柩車です。これは知らない人から見ると、一目では霊柩車と分かりにくい上に、構造物が少なく重量が軽いため、維持費も少なく済むという、いかにも現代風の霊柩車となっています。
では、「宮形霊柩車は一体どこへいったのか?」もちろん国内で運用され続けているケースもありますが、一部車両は何と海外へ輸出されています。日本では死を連想させると忌避されますが、「モンゴル」「ウガンダ」など豪華な葬送文化を持つ国にとっては、金の装飾が施された宮形霊柩車は、ピッタリだったのでしょう。また、アメリカテキサス州にある国立葬儀史博物館に、展示もされているようです。「日本の職人技が海外で生きている」、一例と言えるでしょう。
おわりに
葬送文化の多様化と、コロナ禍により姿を変えつつある日本のお葬式ですが、「火葬」という最終的な到達点は揺るぎません。どれほど形が変わっても、人が最期に乗る乗り物は霊柩車なのです。そう考えてみると、普段何気なく見かける霊柩車にも、関心が湧いてくるのかもしれませんね。